事故が減っても保険料は下がるとは限らない――共通リスクと「本物の安全」の値段
AIは事故を減らせる。しかし、事故が起きたときの損失が想定以上に同期することも明らかにする。
前稿「陰謀なき同期――なぜ政治・戦争・市場は申し合わせたように動くのか」では、共通の情報と似た判断モデルが、目的の異なる参加者を同じ時間へ動かす可能性を考えた。
ここから話題を保険へ移したい。
AIによって設備の故障、火災、漏水、不正、サイバー侵入を早く発見できるなら、事故率は下がるはずである。保険会社の引受業務や保険金査定も効率化できる。そうであれば、技術が進歩するほど保険料も安くなるように思える。
実際、そうなる領域はある。
しかし同時にAIは、これまで別々だと思われていた企業、設備、保険契約が、同じ電力、通信、クラウド、物流、部品、政治リスクへ依存していることも発見する。
個別事故の発生率が下がっても、損失の相関や大規模損失の推計が上がり、その影響が勝れば、保険料は上がり得る。場合によっては、従来の補償条件では引き受けてもらえなくなる。
保険料は事故率だけで決まらない
保険料を極端に単純化すると、次の要素から成り立つ。
期待保険金
+ 事務費
+ 資本コストなどを反映したリスク上乗せ・利益
監視技術によって設備一台の事故率が下がれば、期待損失は減る。
一方、複数の契約が同じ原因で同時に損失を出すと分かれば、保険会社は資本、再保険、補償上限を見直す必要がある。各契約の期待損失が同じなら、相関上昇だけで期待損失の合計は増えない。しかし、損失が集中する局面に耐えるための資本負担は増え得る。
推計の不確実性と集積リスクは、こうしたリスク上乗せを左右する要因であり、資本コストと別々の費用として単純加算すると二重計上になる。
Swiss Reは、一つの事象が複数の保険種目へ広がる損失を「accumulation」または「clash risk」と説明している。企業活動の複雑化、外部委託、データ依存によって、従来想定しなかった形で損失が集積しやすくなっている。
保険会社にとって危険なのは、一件の高額請求だけではない。一つの障害が、財物、事業中断、賠償、輸送、サイバー、役員責任など複数の契約を同時に発動させることである。
AIが安くする安全と、高くする安全
AIが安くできるのは、主に個別設備の事故防止と業務効率である。
- センサーを使った予知保全
- 火災、漏水、異常振動の早期検知
- サイバー攻撃や不正請求の検出
- 気象と輸送遅延の予測
- 事故画像や書類を使った保険金査定
- 設備ごとのリスクに応じた保険条件の設定
一方、AIが見落としを減らすことで、従来より高く評価される可能性があるのは、共通原因で同時に壊れない安全である。リスクを発見して価格が変わることと、AIそのものがリスクを増やすことは区別したい。
複数の工場があっても同じ送電網へ依存していれば、一つの電力障害で止まる。複数の物流会社を使っていても同じ港を通れば、代替経路にはならない。別々のソフトを導入していても、同じクラウド、認証基盤、基礎モデルへ依存していれば、障害は分散されていない。
AIで依存関係が見えるほど、「予備がある」という説明だけでは保険料の割引を受けにくくなる。
実効的な冗長性を作るには、守るべき障害シナリオに応じて、場所、電力、通信、技術方式、部品、物流、人員の依存を分ける必要がある。平時には使わない予備設備、在庫、手動復旧手段の維持費もかかる。
見かけだけの二重化より高くつく場合がある。ただし、すべてを完全に独立させることが最適なのではない。防げる損失と対策費を比較し、残余リスクを保険や自己資本で引き受ける判断も必要である。
PGMは共通依存が見えやすい
プラチナ族金属は、この問題を理解しやすい例である。
パラジウムとプラチナの供給はロシアと南アフリカへの集中度が高い。イリジウムとルテニウムは市場規模がさらに小さく、主要金属と同じ鉱石、坑道、選鉱、製錬、精錬工程から供給される。
鉱山会社が複数あっても、供給網全体では次の共通依存が残る。
- 特定地域の電力と送電設備
- 鉄道、道路、港湾
- 尾鉱貯蔵施設
- 少数の製錬所と精錬所
- 危険物・貴金属輸送
- 水と薬品の供給
- 政治、制裁、輸出管理
- 同じ鉱石から複数PGMを回収する併産構造
前の記事「なぜパラジウムだけが急騰したのか」で扱った南アフリカの尾鉱施設事故では、流出物が鉱山インフラ、鉄道、送電設備を損傷したことを南アフリカ政府が報告している。鉱体そのものが失われなくても、隣接インフラの障害が複数の損失経路を作り得る。ただし、この事例からPGMの大規模な生産停止まで確認できるわけではない。
Munich Reの2017年の解説は、尾鉱自体に財産価値がないため、その損傷による事業中断が一般的な財物保険の支払条件に収まりにくいと指摘した。一方で、特約による補償の存在にも触れている。現在の個別契約が保険不能だと示す資料ではなく、補償条件と実際の操業リスクがずれ得る例である。
これは保険商品の技術的な問題に見えるが、金属供給にも関係する。
十分な保険を確保できない、保険料が上がる、免責額が大きくなる、融資銀行が追加安全投資を要求する。こうした変化は鉱山や精錬所の総費用を押し上げ、高コスト設備の休止や投資延期につながり得る。
実際の事故が起きる前でも、リスクの再評価だけで将来供給が減る可能性がある。
「別会社」は分散を意味しない
投資家がPGM供給を見るとき、生産会社の数だけを数えても十分ではない。
二社が別企業でも、同じ送電線、鉄道、港湾、製錬所を使っていれば、保険上は共通原因を持つ。二つの鉱山が別地域にあっても、同じ装置メーカー、同じ制御ソフト、同じ薬品供給に依存していれば、障害が同時に伝わる可能性がある。
同様に、一つの鉱山からプラチナ、パラジウム、ロジウム、イリジウム、ルテニウムが併産される場合、金属ごとに別市場が存在しても、供給リスクは独立していない。
AIが明らかにするのは、企業名や商品名の違いではなく、その背後にある共通ノードである。
保険会社がこの構造を正確に把握すれば、見かけ上分散された設備や契約を、同じ集積リスクとして扱うようになる。
保険料上昇は、危険を止める価格シグナルでもある
保険料が上がることは、企業にとって望ましくない。しかし市場全体では、安全対策と設備配置を変えるシグナルになる。
保険会社が、独立した予備電源を要求する。尾鉱施設の監視と緊急対応計画を求める。特定港への集中を保険料へ反映する。企業自身が負担する免責額を大きくする。
企業は、保険料を払い続けるか、リスクを減らすか、事業から撤退するかを選ぶ。
この選択があるため、危険な事業は無制限には増えない。
保険料が高すぎて事業が成立しないなら、それは必ずしも保険市場の失敗ではない。その事業が、平時の利益に対して大きすぎるテールリスクを作っているという評価かもしれない。
もっとも、民間の保険料も危険の完全な物差しではない。資本の不足、再保険市況、競争の弱さ、モデルの誤りによっても価格は動く。引受不能が出たときは、事業の危険が大きいのか、保険市場側の供給制約なのかを分けて見る必要がある。
保険条件の格差が広がる可能性
AIはすべての保険を一律に高くするとは限らない。
設備データを開示し、予知保全を導入し、供給経路を分散し、損失上限を明確にできる企業では、期待損失と情報の不確実性が下がる。保険料が安くなる可能性がある。
一方、共通依存が大きい、事故データがない、最大損失を推計できない、対策費を負担できない企業では、保険料や免責額が上がり、補償範囲が狭まる可能性がある。
結果として起きるのは、平均的な保険料上昇だけではない。
保険を利用できる企業と、保険不能になる企業の分化である。
PGM市場で見るべきなのも、金属価格と生産量だけではない。
- 鉱山・精錬会社の保険料と免責条件
- 事業中断保険の補償範囲
- 尾鉱施設に必要な金融保証
- 融資銀行が要求する安全投資
- 予備電力、物流、在庫の維持費
- 保険更新時の除外条項
- 高コスト鉱山の設備投資延期
これらは決算に「保険危機」として明示されない場合でも、維持費、資本コスト、設備投資として供給へ効いてくる。
本物の安全が高いことを、価格から消してはいけない
AIによって個別事故を減らし、低リスク企業の保険料を下げることはできる。
しかし共通依存と巨大損失の見落としが修正されれば、従来の安い安全対策では足りないと分かる場合がある。逆に、AIが総損失と推計の不確実性を十分に減らせば、対策費を含む総費用は下がり得る。
これは技術進歩の失敗ではない。以前は価格に入っていなかったリスクが、価格へ戻ってきた結果である。
事故が減ることと、巨大損失に備える費用が減ることは同じではない。適切に価格付けされた保険料は、危険な設備投資を抑え、供給網を分散させる重要な市場シグナルになる。
次に問題になるのは、その市場価格を政府が高すぎると判断し、公的保証で消そうとするときである。次稿「納税者は知らないうちに保険会社にされる――政府保証という見えない強制保険」(9月3日公開予定。リンクは公開日から有効)では、民間保険が引き受けないテールリスクが、どのように納税者の見えない債務へ移るのかを考える。
※本稿は公開資料に基づく個人的な分析であり、将来シナリオと筆者の推論を含みます。鉱山・保険契約ごとに補償条件は異なり、特定の有価証券、保険商品、先物または貴金属の売買を推奨するものではありません。