キオクシアの8,000億円自社株買いは誰のためか
高PBR、役員報酬、大株主の出口に残る強い違和感
2026年7月31日、キオクシアホールディングスは2027年3月期第1四半期決算と同時に、最大8,000億円の自社株買いを発表した。
取得上限は分割前ベースで3,000万株、発行済み株式の5.5%。取得期間は8月3日から10月30日までで、取引一任契約による市場買付を予定している。同時に、1株を3株に分割する株式分割も決定した。分割の効力が生じる10月1日以降、取得株数の上限は9,000万株に調整される。
第1四半期の決算は、売上収益1兆7,671億円、営業利益1兆2,700億円。空前の利益水準である。しかし今回の発表で、私が決算以上に気になったのは自社株買いの方だった。
自社株買いは「株主還元」ではなく、自社株への投資である
自社株買いは、無条件に株主にとって良いものではない。
会社が本源的価値より安い価格で自社株を買えば、残った株主の1株当たり価値は増える。反対に、本源的価値より高い価格で買えば、会社の資金を使って売却株主に割高な代金を支払うことになる。
後者は、継続保有株主から退出する株主への価値移転である。
EPSが上昇するかどうかだけを見てはいけない。自社株を買えば株数が減るので、利益が変わらなくてもEPSは機械的に上昇する。重要なのは、減らした株数に対して、いくらの資金を支払ったかである。
キオクシアの2026年6月末の親会社所有者帰属持分は2兆4,043億円、自己株式を除く発行済み株式数は約5億4,801万株だった。したがって、直近四半期ベースのBPSは約4,387円となる。
7月31日の終値4万6,500円を使うと、PBRは約10.6倍である。
もちろん、PBRが高いというだけで自社株買いが誤りだとはいえない。今後も極めて高いROEとキャッシュフローを長期間維持でき、本源的価値が4万6,500円を大きく上回るなら、買い戻しは合理的になり得る。
しかしキオクシアは、巨額の設備投資を必要とするNANDフラッシュメモリ企業である。現在の利益率が構造的なものなのか、市況上昇局面のピーク利益なのかは、まだ十分に確認できていない。
それにもかかわらず、自社株買いの開示に記載された理由は「資本効率の向上」と「株主還元の充実」という定型的な説明にとどまる。どのような企業価値評価に基づいて現在の株価を割安と判断したのか、取得価格の規律をどう設定するのか、取得株を消却するのかについては説明されていない。
現在の株価では「5.5%」を買うことはできない
今回の取得枠には、次の二つの上限がある。
- 株数上限:3,000万株
- 金額上限:8,000億円
7月31日の終値4万6,500円で8,000億円を使うと、取得できるのは約1,720万株である。発行済み株式に対する割合は約3.14%にすぎない。
3,000万株を取得するためには、平均取得価格が約2万6,667円以下でなければならない。つまり、「最大5.5%」という数字は、株価が現在より大幅に下落した場合に初めて実現可能になる上限である。
仮に分割前ベースの4万6,500円で8,000億円を全額使った場合、単純計算では次のようになる。
- 取得株数:約1,720万株
- 株数減少率:約3.14%
- EPSの機械的な上昇:約3.2%
- BPS:約4,387円から約3,022円へ低下
- 株価不変の場合のPBR:約10.6倍から約15.4倍へ上昇
BPSが下がること自体が、直ちに経済的損失を証明するわけではない。しかし、簿価の約10倍で株式を買い戻したとき、会社からどれほど多くの資本が流出するかはよく分かる。
3%強の株数削減のために、親会社持分の約3分の1を使う計算である。これを正当化するには、「株価は高く見えるが、本源的価値から見ればなお割安である」という相当に強い説明が必要だろう。
なお、今回発表されたのはあくまで取得枠であり、会社自身も市場環境によって一部または全部を取得しない可能性があるとしている。問題は、全額取得するかどうかだけではなく、この規模の枠をこの価格水準で設定した判断過程である。
財務的に破綻する話ではない。しかし資金配分としては重い
6月末時点で、キオクシアの現金及び現金同等物は7,910億円だった。社債及び借入金は約6,346億円なので、ネットでは約1,565億円のキャッシュポジションである。
また、第1四半期だけで営業キャッシュフローを8,663億円獲得している。第2四半期にも高水準の利益が見込まれているため、8,000億円の自社株買いが直ちに資金繰り問題を起こすという話ではない。
それでも、8,000億円は6月末の現金残高とほぼ同額であり、親会社持分の約3分の1に相当する。
キオクシアはInvestor Dayで、今後3年間、年間約4,700億円の設備投資と約2,300億円の研究開発投資を計画している。また、必要な流動性、財務健全性、運転資本などを確保した後の「余剰累積フリーキャッシュフロー」から株主還元を検討すると説明していた。
それならば、会社は少なくとも次の比較を示すべきである。
自社株を4万円台で買うことが、次世代製品への投資、設備能力の増強、研究開発、借入金の返済、あるいは市況悪化に備えた現金保有よりも、なぜ高いリターンを生むのか。
「資本効率向上」という言葉だけでは、資本配分の妥当性を判断できない。
株価連動報酬と同じ日に決めている
もう一つ強い違和感があるのが、役員報酬との関係である。
キオクシアは自社株買いを決議した同じ7月31日の取締役会で、RSUとPSUのユニット付与も決議した。PSUは、執行役員を兼務する取締役2名と子会社執行役員1名の計3名が対象で、業績目標を最大限達成した場合、合計最大5万8,837株に相当する。
このPSUの株価指標は、3年間の業績評価期間中における「連続する60日間の終値平均の最高値」である。
基準となる60日平均株価に対し、業績評価期間中の最高60日平均が約17%、33%、50%上昇するにつれて、交付・支給率が25%、50%、75%、100%へ段階的に上がる設計になっている。
一方、自社株買いの実施期間は8月3日から10月30日までの約3カ月である。したがって、自社株買いによる需給改善や株価支持が、PSUの判定に使われる60日平均株価に影響する可能性は、制度上否定できない。
報酬制度の指標や支給率については、独立役員を委員長とし、過半数を独立役員とする指名・報酬諮問委員会が関与すると説明されている。これは一定の牽制にはなる。
しかし、それでも外形的な利益相反は残る。
株価を指標とする報酬を受ける経営陣が存在する状態で、会社資金による巨額の自社株買いを決定するなら、PSU対象者のうち取締役を兼ねる者が意思決定から外れたのか、独立取締役がどのような企業価値評価を行ったのかを明示すべきではないか。
違法性や不正を示す証拠があるわけではない。だが、ガバナンス上の説明が必要な組み合わせであることは間違いない。
大株主の出口と重なるタイミング
タイミングも気になる。
ベインキャピタルは7月上旬までにキオクシア株をすべて売却したと報じられている。東芝も7月15日までに保有株の一部を売却し、保有比率を16.10%から15.10%へ引き下げた。そして、その約2週間後にキオクシア自身が最大8,000億円の市場買付を発表した。
今回の自社株買いは市場買付であり、東芝から直接株式を買い取る契約ではない。したがって、現時点の情報だけで「東芝救済」や「大株主からの買い取り」と断定することはできない。
しかし、会社自身が市場の買い手になることは、大株主による追加売却に伴う需給悪化を和らげる方向に働き得る。結果として、売却を続ける大株主に高値の出口を提供する作用を持つ可能性もある。
さらに、ベインキャピタル・ジャパンの杉本勇次氏と末包昌司氏は、6月25日の株主総会でキオクシア取締役に再任されている。ベインが保有株を売り切った後も、ベイン側の人材が取締役会に残る構成である。両氏が今回の自社株買いの審議や決議に参加したのか、棄権したのかは公表資料からは確認できない。
これも直ちに問題だという話ではない。しかし、旧大株主側の取締役が残るなかで巨額の資本政策を決めるのであれば、意思決定過程を通常以上に透明化する必要がある。
政治が働いたのか
キオクシアは、日本の半導体政策や経済安全保障上、重要性の高い企業である。また、同社は米国預託株式を米国の証券取引所に上場する準備を進めている。ただし、予定時期、市場、方法は未定で、検討結果によっては上場しない可能性もある。
そのため、ADS上場準備を意識して株価や時価総額を維持したい、安定株主構成を整えたいといった意図を想像したくなる。
しかし、少なくとも今回の自社株買いの開示には、政府の関与や政策目的に関する記載はない。現時点で、政府や経済産業省が自社株買いを求めたことを示す証拠も確認できない。
したがって、国家的な政治介入を最初の説明にするよりも、次のような資本市場上の動機が複数重なった可能性を検討する方が自然だろう。
- 株価の下支え
- 大株主の売却に伴う需給悪化の緩和
- ADS上場準備を意識した市場評価の維持
- 株価連動報酬
- EPSやROEなど1株当たり指標の改善
ただし、これらは公表資料からの推測であり、会社が説明しなければ真相は分からない。
会社が答えるべきこと
今回の自社株買いについて、キオクシアの取締役会は少なくとも次の点を説明すべきだと思う。
- 取締役会はキオクシア株の本源的価値をいくらと評価したのか。
- なぜ取得上限を8,000億円とし、約3カ月という短期間に設定したのか。
- 取得した自己株式を消却するのか、それとも役員報酬や将来の取引に使用するのか。
- PSU対象者のうち取締役を兼ねる者は、自社株買いの審議・決議から除外されたのか。
- 東芝など大株主の売却、米国ADS上場準備との関係はないのか。
- 設備投資や研究開発よりも自社株買いの期待収益率が高いと判断した根拠は何か。
私は、今回の自社株買いを直ちに違法だとも、政治家が裏で指示したとも考えていない。
しかし、高PBRの市況産業が、現金残高に匹敵する規模の取得枠を設定し、同じ日に株価連動報酬のユニット付与を決議し、その直前まで大株主が売却を続けていたとなれば、「資本効率向上と株主還元」という定型句だけで済ませてよい話ではない。
株価が本源的価値を上回っているなら、自社株買いは株主還元ではない。
長期保有株主の資産を使って、売却する株主に高値の出口を提供する行為になり得る。
問題の中心は、政治的陰謀があるかどうかではない。これほど大きな資本政策について、取締役会が誰の利益を優先し、どのような価値評価に基づいて決定したのかが見えないことである。
説明がない限り、この自社株買いにはかなり強い違和感が残る。
本稿は公開資料に基づく個人的な分析であり、特定の有価証券の売買を推奨するものではありません。