水素社会が失敗しても貴金属は消費される
イラン長期化と公的支出が引き起こす、PGM需要ショックの可能性
イランをめぐる緊張が長引き、原油や天然ガスの供給途絶リスクが意識され続ければ、各国政府がエネルギー安全保障を理由に、水素製造設備への支援を拡大する可能性がある。
ただし、これは現時点で確認された政策決定ではなく、将来シナリオである。イラン問題が深刻化しても、政策資金が再生可能エネルギー、原子力、蓄電池、LNG備蓄へ向かい、水素への支出が増えない可能性もある。以下で検討するのは、輸入燃料への依存を減らす手段として、国内の水素製造能力が政策的に選ばれた場合に何が起こるかである。
水素の採算性より、政府が何GWを発注させるか
民間投資であれば、水素の製造価格や設備費が高すぎれば、投資は延期または中止される。公的支援が入ると、この判断基準が変わる。
「国内に一定量の製造能力を持つ」「輸入燃料への依存を減らす」「肥料、製鉄、海運などの重要産業に供給する」といった政策目的が、個別案件の採算性より重視されるからだ。
公的資金が価格シグナルを完全に消すわけではない。補助制度にも予算上限、入札、稼働条件があり、支援対象となった計画でも中止は起こる。IEAのGlobal Hydrogen Review 2026によれば、2025年末の世界の水電解設備は4GWを超えた一方、100GWを超える発表済み計画が、2027年末までに投資決定できなければ2030年の稼働に間に合わない可能性がある。
それでも補助金、政府保証、長期購入契約が設備費や水素価格の上昇を吸収すれば、民間資金だけの場合より需要破壊は遅くなる。採算性が悪化した瞬間に止まるはずだった設備発注が、政策目的によって継続する余地が生まれる。
貴金属市場にとって重要なのは、水素が最終的に安くなるかではない。政府支援によって、どの方式の水電解装置が実際に何GW発注されるかである。
PEMの拡大にはイリジウムという物理的な上限がある
水電解には、アルカリ型、PEM型、AEM型、固体酸化物型など複数の方式がある。このうちPEM型は変動する電源への追従性や装置の小型化に利点がある一方、酸素発生側の触媒にイリジウム、水素発生側にプラチナを使用する。
問題はイリジウム市場が極端に小さいことだ。
IRENAの2024年報告では、PEM水電解装置のイリジウム使用量は約1~2.5グラム/kW、世界の年間生産量は約7~7.5トンとされている。現在の原単位を単純に当てはめれば、世界のイリジウム生産をすべてPEMへ回しても、年間約3~7.5GW分にしかならない。
実際にはイリジウムには電子部品、るつぼ、点火プラグなど既存需要があり、全量を水素設備へ投入することはできない。供給は南アフリカへの集中度が高く、価格が上昇しても短期間で鉱山生産を増やしにくい。
IRENAの別の試算は、2030年に世界で年間100GWの電解設備が増設され、その40%がPEM、イリジウム使用量が400キログラム/GWまで低下した場合でも、電解装置だけで年間16トンが必要になるとしている。これは現在の年間生産量を大きく上回る。
この段階では、問題は価格だけではない。必要な数量を納期までに確保できないという、物理的な制約になる。
需要増加と原単位低下の競争になる
もっとも、「PEMが増えればイリジウムが必ず枯渇する」と断定するのも正しくない。触媒原単位は急速な削減が試みられている。
米国エネルギー省の技術目標では、PEMスタックのプラチナ族金属使用量について、2022年時点の0.8グラム/kWから、2026年目標を0.1グラム/kW、最終目標を0.03グラム/kWとしている。これは商用設備全体がすでに達成した数字ではなく、性能と耐久性を維持しながら到達すべき目標である。
したがって本当の争点は、PEM導入量の増加とイリジウム原単位の低下のどちらが速いかになる。
政府支援によって設備発注が原単位削減より速く増えれば、イリジウム制約は強まる。反対に、低イリジウム触媒、触媒層の高度化、設備の高出力化が先行すれば、同じ量のイリジウムでより多くの設備を建設できる。
政策が設備容量だけを評価し、触媒原単位や回収計画を十分に問わない場合、補助金が希少資源の浪費を促す危険がある。一方、低PGM原単位を補助要件にすれば、公的支出が技術改善を加速させる可能性もある。
最初の代替先はルテニウムだが、制約は移動する
イリジウムを節約する方法の一つが、ルテニウムとの混合や、ルテニウム系触媒の利用である。ルテニウムは酸性条件で高い酸素発生活性を示すが、耐久性の確保が課題になる。そのため、単純にイリジウムをルテニウムへ置き換えるのではなく、混合酸化物、担体、ナノ構造などによって、活性と安定性を両立させる研究が進められている。
しかしルテニウムも市場規模の小さなPGMである。低イリジウム触媒が大量採用され、その設計がルテニウムに依存すれば、制約が消えるのではなく、イリジウム市場からルテニウム市場へ移動する可能性がある。
この波及は、まだ確定した需要予測ではない。どの触媒設計が商用規模で採用されるかによって、必要量は大きく変わる。それでも、イリジウム価格だけを見てPEMの資源制約を判断するのは不十分である。
プラチナは既存需要、パラジウムは条件付きの選択肢
プラチナは、PEMの水素発生側ですでに主要な触媒である。イリジウムほど厳しい原料制約ではないとしても、PEM設備が増えればプラチナ需要も増える。ただし低担持化が進めば、設備容量の増加と金属需要が同じ割合で増えるとは限らない。
パラジウムはさらに慎重に扱う必要がある。酸性条件の酸素発生側では、現在の商用PEMにおける主流触媒ではない。一方で、ナノ構造や表面ひずみを制御したパラジウム触媒について、PEMセルで高い電流密度を示した研究例は存在する。
これはパラジウムが直ちにイリジウムを商用代替できることを意味しない。長期耐久性、低担持量、量産工程、実機での性能劣化を解決する必要がある。
したがって最初に起こり得るのは、パラジウムの巨大な実需ではなく、代替触媒への研究資金の流入である。その研究が商用耐久性と低担持量を実証し、メーカーの製造工程に採用された場合に限り、設備需要へ発展する。
自動車の電動化によって排ガス触媒需要の長期減少が意識されてきたパラジウムにとって、この条件付きシナリオは無視できない。しかし、現段階で水素をパラジウムの新しい巨大需要先と断定するのは早い。
設備に入った貴金属は市場から長期間退出する
水素設備が最終的に十分利用されなくても、建設時に触媒として投入された貴金属は設備内に残る。永久に失われるわけではなく、廃棄時に回収できる可能性はある。しかし設備の稼働期間中は在庫として拘束され、短期的な市場供給には戻りにくい。
EU共同研究センターの報告も、電解装置のプラチナとイリジウムについて、触媒原単位の削減とともにリサイクル基盤の整備が必要だと指摘している。
公的支援が生産量に連動する制度なら、稼働しない設備への支払いは抑えられる。それでも設備が建設された時点で、触媒金属は調達済みである。水素の最終需要が予想を下回っても、建設局面で発生した貴金属需要まで消えるわけではない。
水素社会の成否ではなく、設備発注の速度を見る
想定される連鎖は、次のようになる。
イラン情勢の長期化と輸入不安
→ エネルギー安全保障への支出拡大
→ 国内水素製造能力への政策支援
→ PEM設備の発注増加
→ イリジウム需要が原単位削減を上回る
→ 低イリジウム・ルテニウム系触媒への移行
→ ルテニウムを含むPGM内部への制約波及
→ プラチナ需要の増加とパラジウム系触媒への研究資金流入
→ 最終的にアルカリ型、AEM型など低PGM方式の比率上昇
これは基本予測ではなく、政策支援がPEMへ集中した場合のストレスシナリオである。実際には、イリジウム価格の上昇、調達不能、低PGM方式への補助条件変更によって、途中でアルカリ型やAEM型への移行が進む可能性が高い。
それでも技術転換には時間がかかる。工場、認証、部材供給、保守体制、補助制度がPEMを前提として構築された後では、設備方式を即座に変更できない。この移行期間に、小さな貴金属市場へ政策資金が集中する危険がある。
貴金属市場にとって本当に重要なのは、「水素社会が成功するか」ではない。
政府支援によって何GWのPEM設備が実際に発注され、そのときのイリジウム原単位が何グラム/kWまで下がっているか。
この二つの速度差が、イリジウム不足を一時的な価格上昇で終わらせるのか、ルテニウム、プラチナ、パラジウムを巻き込むPGM需要ショックへ発展させるのかを決める。
イラン問題は、その連鎖を加速させる一つの契機になり得る。しかし投資判断で見るべきなのは地政学的な物語だけではない。補助制度の対象方式、実際に投資決定した設備容量、触媒原単位、メーカーの採用技術、そして回収計画である。
※本稿は公開資料に基づく個人的な分析であり、将来シナリオを含みます。特定の有価証券または貴金属の売買を推奨するものではありません。