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market-analysis2026-08-25

水素価格ではなく、補助金予算を見よ

Written by metal
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公金が需要破壊を遅らせるとき、PGM市場に何が起きるか

水素設備がイリジウム、プラチナ、ルテニウムの新しい需要先になるかを考えるとき、多くの人は水素価格を見る。

再生可能電力が安くなるか。電解装置の価格が下がるか。天然ガス由来の水素と競争できるか。最終需要が本当に育つか。

もちろん、これらは重要である。しかし貴金属市場の短期から中期を考えるなら、もう一つ見るべき数字がある。

各国政府が、何年間にわたり、いくらの公金で、どの方式の設備を建設させようとしているか。

水素が経済合理性だけで普及するなら、製造費が高くなった時点で設備投資は止まる。ところが補助金、政府保証、価格差支援、公共調達が入ると、民間投資だけなら採算基準を満たさなかった計画が投資決定へ進む。

公金はイリジウムを直接買わない。しかし設備の限界採算を変え、電解装置の発注を通じて、結果的にイリジウムを買わせる。

この経路が、貴金属市場に生じる歪みの正体である。

410億ドルの政策資金が動き始めている

IEAのGlobal Hydrogen Review 2026は、2025年版以降に更新された水素政策について、総額410億ドルの公的資金を確認している。その約3分の2は施行済みの法律に関連し、約25%はすでにプロジェクトへ支出され、最終投資決定を促したとされる。

支援は需要側より供給側に偏っている。需要支援1ドルに対し、供給支援には約1.5ドルが向かう。

この410億ドルがすべて水電解装置に使われるわけではない。PEM型だけを対象にした資金でもなく、イリジウム購入費と比較することもできない。それでも、政策資金の規模が希少金属市場より桁違いに大きいことは重要である。

IRENAの推計では、世界のイリジウム生産は年間約7~7.5トンである。USGSの2025年資料にある2024年の平均価格、1トロイオンス当たり約4,800ドルを単純に掛けると、一次生産額の粗い代理値は約11億ドルとなる。

これは市場規模を厳密に表す計算ではない。在庫、長期契約、リサイクル、精錬マージンを含まず、政策予算と金属購入額を直接比較することもできない。しかし、数百億ドルの政策枠のごく一部がPEM設備の発注へ変わるだけでも、10億ドル前後の小さな一次供給市場に大きな影響を与え得ることは分かる。

補助金は価格上昇による需要破壊を遅らせる

通常の民間プロジェクトでは、イリジウム価格が上がり、電解装置が高くなれば、期待収益率が低下する。一定水準を超えれば建設を中止するか、アルカリ型など別方式へ切り替える。

この需要破壊が、価格上昇による市場調整である。

ところが公的支援が設備費や水素価格の一部を吸収すれば、事業者が負担する実効コストは下がる。イリジウム価格が上昇しても、補助枠の範囲内なら計画を継続できる。

つまり補助金は、金属価格と設備発注の間に緩衝材を入れる。

価格シグナルが完全に消えるわけではない。予算上限を超えれば止まり、入札に負ければ支援されず、物理的にイリジウムを調達できなければ設備は作れない。それでも民間投資だけの場合と比べれば、価格上昇による需要破壊が始まる水準は高くなる。

小さな貴金属市場から見ると、需要曲線が一時的に価格へ反応しにくくなるのである。

公金の種類によって歪み方は違う

「水素補助金」と一括りにすると、実際の需給を読み違える。制度によって、設備建設を促す力と、稼働しない設備を残す危険は異なる。

設備費や拠点整備への補助金は、建設前に投資採算を改善する。採択後に事業者が最終投資決定を行い、電解装置を発注すれば、水素を1キログラムも販売していない段階で触媒金属の調達が始まる。

米国のRegional Clean Hydrogen Hubsには最大70億ドルの連邦負担枠が用意され、エネルギー安全保障も政策目的に含まれている。ただし、これは70億ドルが一括して支出されたという意味ではない。米政府監査院の報告によれば、2024会計年度の予算計上額は16億ドル、契約上の義務額は約1億900万ドル、実際の支出は約900万ドルだった。各ハブは段階審査を受け、次のフェーズへ進めなければ後続資金は支払われない。

この差は、公金の「発表額」「予算額」「契約上の義務額」「実支出額」を分ける必要性を示している。融資保証や低利融資も資金調達費を下げて投資を促すが、保証枠の設定だけで触媒需要が発生するわけではない。

価格差支援は、既存燃料と低炭素水素の価格差を公金で埋める。日本の制度は、プロジェクトごとに基準価格と参照価格を決め、その差の全部または一部を15年間支援する設計である。2025年3月までに27件の申請があり、2026年3月までに6件が認定された。長期支援は将来収入の予測可能性を高め、投資決定を促す。ただし認定案件には輸入水素やアンモニア、廃棄物由来水素も含まれ、6件すべてがPEM設備やPGM需要になるわけではない。

生産量に連動するプレミアムは、設備を建てただけでは支払われない。EUのEuropean Hydrogen Bankは、認証・確認された水素生産量に応じて、最大10年間の固定プレミアムを支払う。競争入札で低い支援額を提示した案件から選ぶため、未稼働設備への支払いを避け、必要な支援額を競争で絞る設計になっている。

しかし、生産プレミアムであっても、将来の公的収入を前提に融資を組めるなら、支援がなければ建たなかった設備を建設させる。歪みがないのではなく、稼働と生産を伴う案件へ歪みを限定している。

さらに、公共調達、混合義務、利用比率の規制は、一定量の利用や調達を求め、価格以外の政策条件で需要を支える。これは供給補助より直接的に、需要そのものを政策で作る。

「何GW」という目標は希少金属の浪費を見落とす

政策評価が設備容量だけに偏ると、別の問題が起きる。

政府が「2030年までに何GW」という目標を掲げると、行政と事業者には設備を期限内に建設する誘因が生まれる。しかし、設備容量は実際の水素生産量、稼働率、触媒原単位、設備寿命、リサイクル率を表さない。

同じ1GWでも、PEM型かアルカリ型かで必要な金属は違う。PEM型でも、イリジウム使用量が1グラム/kWの設備と0.1グラム/kWの設備では、必要量が10倍違う。

それにもかかわらず、補助制度が設備容量と供給開始日だけを重視し、触媒原単位を評価しなければ、同じ政策効果を得るために多くの希少金属を使う設備が選ばれる可能性がある。

エネルギー安全保障を理由に国内製造を条件とした場合も、競争範囲が狭まり、価格が高くても特定技術を採用し続けることがある。これは政策上意図された保険料ともいえるが、貴金属市場から見れば価格弾力性をさらに低下させる。

歪みは発表時ではなく、発注時に実需になる

ただし、政府が巨額予算を発表しただけでイリジウム需要が発生するわけではない。

政策資金が実物需要へ変わるまでには、次の段階がある。

予算方針の発表
→ 法律と予算の成立
→ 支援制度の公募
→ プロジェクトの採択
→ 最終投資決定
→ 電解装置の発注
→ 触媒・膜電極接合体の調達
→ 建設・稼働

金属市場の期待は予算発表や採択で先に動き得る。しかし実需が発生するのは、メーカーが部材を発注し、触媒在庫を確保する段階である。

この区別は重要だ。水素分野では、目標や発表済み計画に比べ、最終投資決定へ進む案件が少ない。IEAも、高コスト、不確実な需要、規制、インフラ不足が普及を妨げ、政策支援が投資決定を促した案件はまだ限られると指摘している。

「政府が何兆円を発表したか」だけを見て貴金属を買えば、実需にならない計画まで織り込む危険がある。

見るべきなのは、予算の執行額、採択案件の技術方式、最終投資決定、電解装置メーカーの受注、そして触媒原単位である。

公的支援は浪費だけを生むわけではない

公金による市場の歪みを、すべて無駄と決めつけるべきではない。

エネルギー安全保障には、平時の市場価格に表れない価値がある。輸入途絶時に使える国内設備は、通常時の稼働率が低くても保険として意味を持つ。初期需要を政府が作ることで量産、標準化、低触媒化が進み、将来のコストが下がる可能性もある。

重要なのは、公的介入の是非と、介入が貴金属需給へ与える影響を分けて考えることである。

良い制度設計なら、競争入札、段階的な支払い、稼働条件、未達時の返還、低PGM原単位、リサイクル計画を組み合わせられる。悪い制度設計なら、建設容量だけを成果として数え、高コストで低稼働の設備と、長期間拘束された希少金属を残す。

どちらの場合でも、民間投資だけの市場とは異なる需要経路が生まれる。

貴金属投資家は水素価格より予算執行を見る

公金による需給の歪みを見極めるには、次の項目を追う必要がある。

  • 発表額ではなく、法律で確保された予算と実際の支出額
  • 設備補助、融資保証、価格差支援、生産プレミアムの違い
  • 採択案件がPEM、アルカリ、AEMのどれを採用するか
  • 支援対象のGWではなく、メーカーへの確定発注量
  • イリジウムとプラチナの実際のグラム/kW
  • 国産要件、供給網強靱化、技術指定の有無
  • 稼働条件、返還条項、計画中止率
  • 使用済み触媒の回収義務

水素価格が高いから設備は建たない、という市場原理だけでは不十分である。政府が価格差を埋め、長期収入を保証し、需要を義務化すれば、高い水素でも設備は発注される。

そして設備が発注された時点で、水素社会が最終的に成功するかとは別に、触媒金属の需要は発生する。

貴金属市場にとって重要なのは、水素の理論的な採算性ではない。採算性の不足を、各国政府がどこまで公金で引き受けると決めたかである。

イリジウムやルテニウムのような小さな市場では、その一部が実行されるだけでも価格と在庫を大きく動かし得る。公金が動くとき、市場が本来行うはずだった需要破壊は遅れ、金融的な不採算が物理的な資源制約へ置き換わり得る。

これが、水素政策から生まれる最も大きな歪み期待である。

※本稿は公開資料に基づく個人的な分析であり、政策効果に関する将来シナリオを含みます。特定の有価証券または貴金属の売買を推奨するものではありません。

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