パラジウム安がイリジウム不足を悪化させる
PGM鉱山は、一つの金属価格では動かない
自動車の電動化が進めば、ガソリン車の排ガス触媒に使われるパラジウム需要は長期的に減少する。だからパラジウム価格は下がり、プラチナ族金属全体も余りやすくなる。
これは一見すると自然な見方である。しかし、ここには重要な落とし穴がある。
パラジウム、プラチナ、ロジウム、ルテニウム、イリジウムは、それぞれ完全に独立した鉱山から生産されるわけではない。同じ鉱石に含まれ、同じ坑道、選鉱設備、製錬所、精錬所を通って市場へ出てくる。
そのため、パラジウム価格の下落はパラジウムだけを減産させるのではない。鉱山全体の採算を悪化させ、結果としてイリジウムやルテニウムまで供給を減らす可能性がある。
前回の記事「水素社会が失敗しても貴金属は消費される」では、PEM水電解の拡大がイリジウム制約を引き起こす可能性を検討した。今回は反対側、つまり鉱山供給がなぜイリジウム価格だけでは増えないのかを考える。
イリジウムが高くても、イリジウムだけは掘れない
米国地質調査所によれば、プラチナ族元素は自然界で一緒に産出する傾向がある。世界供給は南アフリカとロシアへの集中度が高く、とりわけ南アフリカのブッシュフェルド複合岩体は、プラチナ、ロジウム、イリジウム、ルテニウムの重要な供給源である。
鉱山会社が掘るかどうかを決めるとき、見るのはイリジウム単独の価格ではない。鉱石1トンから回収できるプラチナ、パラジウム、ロジウム、金、その他PGMの合計収入と、採掘、電力、人件費、製錬、精錬、維持投資を比較する。
この合計収入がPGMバスケット価格である。
イリジウムが高騰しても、その鉱石に含まれる量が少なく、鉱山収入への寄与が小さければ、それだけで赤字坑道を再開できるとは限らない。反対に、パラジウムやロジウムのように収入構成比が大きい金属が下落すれば、イリジウム需要が強くても鉱山全体は減産へ向かい得る。
鉱山収入の大半はイリジウム以外から来る
USGSによる南アフリカ鉱業の調査では、2022年の同国PGM鉱山会社の収入構成は、ロジウム約50%、パラジウム約23%、プラチナ約20%、イリジウム約4%、ルテニウム約3%だったとされる。
これは2022年の価格と生産構成に基づく数字であり、現在のすべての鉱山にそのまま適用できる比率ではない。鉱体によって各金属の含有比率も異なる。それでも、イリジウムとルテニウムが鉱山経営を単独で決める主収入源ではないことは分かる。
単純な例を考える。鉱山収入のうちイリジウムが4%なら、イリジウム価格が2倍になっても、数量と他の条件が変わらなければ総収入の増加は約4%である。一方、収入の23%を占めるパラジウムが30%下落すれば、他の条件が同じでも総収入を約7%押し下げる。
これは鉱山採算を予測する計算ではない。為替、鉱石品位、回収率、長期契約、在庫販売、各金属価格が同時に変動するからだ。しかし、少量金属の急騰が主要金属の下落を簡単には埋められない構造は示している。
PGMバスケット安は、すでに鉱山行動を変えた
この仕組みは理論だけではない。
Sibanye-Stillwaterの2024年報告では、PGMバスケット価格の低下が利益とキャッシュフローを圧迫し、不採算事業の再編や閉鎖を進めたと説明されている。同社の南アフリカPGM事業では、2024年の平均4Eバスケット価格がランド建てで16%低下し、調整後EBITDAは前年比58%減少した。同社の事業報告は、高コスト坑道の再編と、Marikanaの4B坑道閉鎖も記録している。
これらの再編をパラジウム価格だけで説明することはできない。南アフリカではプラチナとロジウムの寄与も大きく、電力、人件費、品位、操業障害も採算を左右する。米国モンタナの鉱山は南アフリカよりパラジウム比率が高く、同じ価格変動でも影響は異なる。
それでも、複数のPGM価格が下がってバスケット収入が減れば、鉱山会社が高コスト坑道を閉じ、成長投資を延期することは確認できる。坑道から出る鉱石量が減れば、その中に含まれるイリジウムとルテニウムも減る。
減産はPGM全体へ伝わる
同じ鉱石を処理する以上、減産の影響をイリジウムだけから切り離すことは難しい。
USGSの南アフリカ調査によると、Anglo American Platinumの鉱山生産が2022年に減少した際、パラジウムは約10%、プラチナは約8%、イリジウム、ロジウム、ルテニウムはそれぞれ約7%減少した。これは一社の特定年度の実績であり、価格低下だけが原因ではない。設備改修、電力制約、天候なども影響している。
それでも、採掘・処理量の変化が複数のPGM供給へ同時に現れることを示す実例ではある。
Sibanye-Stillwaterの2025年統合報告でも、同社の鉱山生産はプラチナ113万3,544オンス、パラジウム75万6,333オンス、ルテニウム25万8,393オンス、イリジウム5万9,829オンスと、同じ事業基盤から複数金属が生産されている。前年との比較では、程度は異なるものの、これらはいずれも減少した。
精錬在庫や中間製品があるため、鉱山減産と精錬供給の減少が同じ月に表れるとは限らない。各鉱体の含有比率も違うので、すべての金属が同率で減るわけでもない。しかし長期的には、採掘する鉱石そのものが減れば、少量成分だけを維持することは難しい。
EV化と水素政策が鉱山で衝突する
ここで、自動車と水素という二つの政策が同じ鉱山で衝突する。
EV化が進むと、内燃機関車の排ガス触媒に使われるパラジウムの長期需要には下押し圧力がかかる。パラジウムやロジウムの下落によってPGMバスケット価格が下がれば、高コスト鉱山の閉鎖や設備投資の延期が増える。
一方、エネルギー安全保障や脱炭素政策がPEM水電解設備を増やせば、酸素発生側に使うイリジウム需要は増える。
その結果として起こり得るのが、次の逆説である。
EV化によるパラジウム需要の減少
→ PGMバスケット価格の低下
→ 高コスト坑道の閉鎖・成長投資の延期
→ イリジウムとルテニウムの併産量も減少
→ PEM水電解の拡大と供給減少が重なる
→ イリジウム価格の急騰と物理的な調達難
パラジウムが余ることと、イリジウムが不足することは矛盾しない。同じ鉱山から出る金属でも、需要の方向と市場規模が違うからだ。
イリジウム高は鉱山を救うのか
イリジウム価格が十分に上がれば、PGMバスケット収入を押し上げ、回収率改善や精錬能力への投資を促す可能性はある。これまで経済的に回収されなかった少量成分を、より丁寧に回収する動機も強くなる。
しかし、価格上昇から鉱山供給の増加までには時間がかかる。閉鎖した坑道の再開、新しい立坑、選鉱・製錬能力の増強には、許認可、資金、人員、電力、建設期間が必要になる。イリジウムだけの需要を見て、鉱石中の含有比率を変えることもできない。
USGSの2025年重要鉱物評価は、イリジウムの年間生産能力を南アフリカ8トン、ロシア1.8トン、ジンバブエ1トンなどと推計している。ルテニウムも南アフリカへの依存度が高い。新しい需要が数トン単位で発生するだけでも、既存供給能力に対して大きな変化になる。
価格は需要を減らすことはできても、短期間で新しい鉱石を作ることはできない。
パラジウムの弱材料がPGM全体の弱材料とは限らない
この構造から、パラジウムの長期需要減少を、そのままPGM鉱山全体の恒久的な弱材料とみなすことはできない。
パラジウム安が鉱山供給を減らし、その後にイリジウム、ルテニウム、プラチナの新需要が増えれば、PGMバスケットの中身は変わる。かつてプラチナ中心だった鉱山収入がパラジウムとロジウム中心へ移ったように、水素関連需要が少量金属の経済的重要性を高める可能性がある。
ただし、これはパラジウム価格そのものが必ず上昇するという話ではない。イリジウム高で鉱山採算が改善して供給が維持されれば、同じ鉱石から出るパラジウムの供給も残り、パラジウム市場の余剰が長引く可能性さえある。
したがって投資家が見るべきなのは、一つの金属価格だけではない。
- 鉱山ごとのプラチナ、パラジウム、ロジウム、イリジウム、ルテニウムの含有比率
- PGMバスケット価格と鉱山の総維持費
- 高コスト坑道の閉鎖、休止、再開
- 維持投資と成長投資の削減
- 採掘量と精錬量の差、工程内在庫
- イリジウムとルテニウムの回収率
- 使用済み触媒からのリサイクル供給
イリジウム不足は、イリジウム市場だけを見ても予測できない。パラジウム価格、ロジウム価格、南アフリカの電力、人件費、坑道投資まで含めて初めて、供給の方向が見える。
パラジウム安は、イリジウムを安くするとは限らない。限界鉱山を止めるほどPGMバスケットを悪化させれば、むしろ水素設備が必要とするイリジウムの不足を深刻化させる。
これが、EV化と水素政策が同じPGM鉱山でぶつかるときに起こり得る、最も重要な逆説である。
※本稿は公開資料に基づく個人的な分析であり、将来シナリオを含みます。鉱山ごとに金属構成と採算条件は異なり、特定の有価証券または貴金属の売買を推奨するものではありません。