中国が突然成長したのではなく、封印されていた規模が現れた
連載「戦後日本の膨張と収縮」第3回
2001年、中国がWTOへ加盟したとき、加盟条件をまとめた文書は約1,500ページ、重さにして13キログラムあったという。WTO自身が残した記録である。
一国の成長を13キログラムの文書が作ったわけではない。
しかし、この異様な紙の束は、中国経済に起きた変化の正体をよく表している。中国は突然、人口や土地や港を手に入れたのではない。もともと存在した巨大な生産力が、価格、投資、貿易のルールへ接続された。
日中の位置を変えたのは、資本主義か社会主義かという看板ではなく、資本と労働が新しい用途へ動けたかどうかだった。
中国が手に入れたのは、人口ではなく「移動」だった
改革開放以前の中国にも、巨大な人口と沿岸部の港湾適地はあった。
足りなかったのは、それらを市場の需要に合わせて組み替える経路だった。農村から都市へ人が移る。海外企業が設備と注文を持ち込む。輸出で得た外貨を、次の工場や港へ投じる。成功した仕組みを別の地域へ広げる。
世界銀行による中国の外資導入史は、1980年代から90年代にかけて、沿岸都市や経済特区で輸出型の外資導入を試し、制度を段階的に広げた過程を説明している。
これは全面的な自由化ではなかった。土地、金融、重要産業への国家統制は残り、地域や企業によって条件も違った。それでも、計画の外側に価格と利益の回路を作った意味は大きかった。
安い労働力があったから成長した、という説明だけでは足りない。安い労働力は、それを雇う企業、輸出先、港、電力、資金が接続されて初めて生産力になる。
WTO加盟は、巨大な工場に注文窓口を付けた
中国は2001年12月11日にWTO加盟国となった。加盟時の約束には、外国企業への無差別待遇、二重価格の解消、貿易権の拡大、法制度の整備などが含まれていた。
すべてが約束どおり進んだわけではない。知的財産、補助金、国有企業、市場アクセスをめぐる摩擦はその後も続いた。
それでも海外企業にとって、中国で作り、世界へ売る際の予測可能性は高まった。中国の労働力は、国内市場だけではなく、世界の注文と接続された。
大きな国が豊かになったというより、閉じていた大きな国が世界市場の中へ入ってきた。その衝撃を、日本を含む既存の工業国は受けた。
日本は市場経済をやめたのではない
一方の日本を「社会主義化した」と呼べば話は簡単になるが、正確ではない。
日本には株式市場があり、企業は利益を競い、倒産も起きる。新しい産業や輸出企業も育っている。中国より法的安定性が高く、民間企業の自由が広い分野も多い。
問題は体制名ではなく、資源配分の傾きである。
バブル崩壊後の日本では、雇用、取引先、地域金融、既存設備を急激に失わないことが重視された。それは社会の破壊を抑える役割を果たしたが、人材、土地、融資が新しい企業へ移る速度も落とした。
内閣府の企業データ分析では、2000年以降、新規参入企業が生産性上昇に一貫して大きく寄与する一方、生産性の高い企業が退出している可能性も示されている。日本では単に退出が少ないのではなく、残す企業と失う企業の選別がうまく働いていない。
企業を守る政策と、人を守る政策は同じではない。古い事業を維持すれば雇用は当面残る。しかし労働者が新しい技能や産業へ移る機会まで固定すれば、保護は将来所得を削る。
中国の成功も、永久機関ではない
ここまでの話から、中国が永遠に成長し、日本が必ず衰退すると結論づけることはできない。
中国自身も、不動産依存、地方債務、人口減少、国有企業の低効率、民間企業への統制という問題を抱えている。市場化によって解放した移動を、再び政治が狭めれば、かつての強みは弱くなる。
日本にも、精密部品、素材、製造装置、研究、コンテンツなど、長い蓄積を新しい需要へ接続できる領域がある。重要なのは過去に何を持っていたかではなく、それを次の用途へ移せるかである。
中国の人口が突然、十億人になったわけではない。
巨大だったのは最初から同じである。変わったのは、その巨大さが価格と注文に反応して動き始めたことだった。
国の大きさを決めるのは、持っている資源の総量だけではない。
資源が昨日の配置から離れられる速度である。